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白馬岳
コマクサ、リンネソウ,イワイチョウ,シロウマアサツキ

日本百名山 深田久弥 新潮文庫  p.198
花の百名山 田中澄江 文春文庫  p.276
新花百名山 田中澄江 文春文庫  p.245
・大糸線白馬駅/RGより車2時間 [花・百名山][八ヶ岳&山]

 春の花               シラネアオイ 
 夏の花 ←コマクサ、クルマユリ、シロウマアサツキ 
 秋の花             シロウマリンドウ 

 八ヶ岳、御岳、白馬岳と高山植物の三大宝庫。本州に分布するほとんどの種類が見られる。
45 白馬岳(2933E)「日本百名山」深田久弥 新潮文庫 P.198

 日本アルプスへの初見参が白馬(しろうま)岳であった人は少なくないだろう。高峰へ初めての人を案内するのに、好適な山である。大雪渓があり、豊富なお花畑があり、眺望がすこぶるよい。私の知人で、この頂上から生れて初めて日本海を見たという人もある。
 登りに変化があってしかも易しく、道も小屋も整っている。コースもいろいろあって、正面の大雪渓から登り、帰りは北行して白馬大池を訪うもよろしく、南行してわが国最高の露天風呂白馬鑓温泉に一浴するのもおもしろかろう。健脚の人は、更に後立山連峰へ足を伸ばすもよし、 中から黒部谷へ下るのも興味がある。いずれにせよ、白馬岳は、槍ヶ岳と共に北アルプスで最も賑わう山である。
 白馬岳は、西側の越中や越後側では、大蓮華山と呼ばれた。北に位置しているから雪が多い。その白雪に輝く山容が、日本海側から見ると蓮華の開花に似ていたからだという。信州側から仰いでも実に堂々とした貫禄を持っている。しかし私はこの山を東西の横から眺めるよりも、南北の縦から望んだ姿が好きである。縦から見た白馬岳は、横から見たのと、別人の観がある。東側が鋭く切れ落ち、キッと頭を持ちあげたさまは、怒れる獅子といった感じをいつも私は受ける。颯爽たる姿である。
 この立派な山に、以前は信州側にはこれという名が無く、単に西山と呼ばれていた。それがいつ頃からか代馬(しろうま)岳と名づけられ、それが現在の白馬岳と変った。代馬よりは白馬の万が字面がよいから、この変化は当然かもしれないが、それによってハクバという発音が生じ、今では大半の人がハクバ山と誤って呼ぶようになっている。この誤称は防ぎ難い。すでに膝元からして白馬村と唱えるようになった。
 代馬岳という名の起りは、山の一角に、残雪の消えた跡が馬の形になって現われるからであった。 田植にかかる前の苗代掻をする頃この馬の形が見え始めるので、苗代馬の意味で代馬と呼んだという。もう二十数年前、私の友人田辺和雄君が五月下旬、山麓へ行って、古老の話を聞き、その馬の形をつきとめてカメラに収めてきた。それは主峰よりずっと右に寄った小蓮華岳の右肩のはずれの残雪の中にあった。小さな地肌の黒馬であった。
 一説では、主峰と小蓮華との鞍部の左下に残雪の間に現われる地肌の形を、その馬だと指す人もある。どちらにしても、現地であれだよと指し示されなければ、見分けることの出来ないような形である。しかし朝夕山を仰ぎながら労働している山麓の勤勉な農夫たちにとっては、農事のしおりとなるハッキリした存在だったのであろう。一般の登山者で賑わう七月頃には、もう雪もだいぶ溶けて、馬の形は殆んど分らなくなる。
 わが国の高山には大ていその項上に古くから祠が祀ってあるが、白馬岳にはそれが無い。この美しい山を讃えた詩歌の類も、古い記録には見当らない。明治二十七年(一八九四年)ウェストンが頂上に立つまで、おそらく薬草採りや猟師にだけ任された原始的な山だったのであろう。ウェストンは蓮華鉱山の万から登り、大雪渓を下っている。
 日本の登山家で最初に登ったのは、河野齢蔵、岡田邦松氏等の一行で、明治三十一年であった。そして白馬岳の記事が初めて現われたのは、その翌年であった。こんな風に白馬岳が世に知られることのおそかったのは、僻遠の地にあったからだろう。今でこそ一夜の汽車で山麓に達しられるが、半世妃前には、信州の奥の北安曇まで旅する人は、ごく僅かであったに違いない。
 私の最初の登頂は大正十二年(一九二三年)の七月で、乗物はまだ大町までしかなかった。そこから一日歩いて四谷で泊り、翌朝山にかかった。頂上に達して、その日のうちに大池まで往復してきたのだから、当時の元気のよかったことが察しられる。
 その後、私は四季を通じて白馬に登った。積雪期には栂他の方から登り、頂上で腹這になって東面岩壁の氷雪の殿堂を覗いた。新緑の侯にはまだ残雪多量の大雪渓を登りながら、両側の尾根のダケカンバのようやく芽ぐんできた美しい色彩を眺めた。紅葉を見に行った秋は、小雨に降られて、ただ一人頂上で濠々たる霧に巻かれるに任せた。
 近頃は白馬山麓へスキーに行く人が多くなった。もちろん山へ登ろうなどという気はおこさず、もっばらリフトに頼って滑降を楽しむだけの人が大部分だが、しかし登山に無縁の彼等スキー大衆といえども、白馬、杓子、鑓の、いわゆる白馬三山が白銀に輝いているのを仰いでは、その気高い美しさに打たれずにおられないだろう。
 


 
69白馬岳 コマクサ(ケシ科)花の百名山 田中澄江 文春文庫  p.276

 はじめて、まだ雪のある立山の一ノ越の斜面を登っているとき、足のおそい私は、立ちどまっては上を仰ぎ、下を見下していたのだが、はるか下の方の室堂平から、一面の雪の原を横切って、数点の黒い影となったひとたちが、見る見る追い付き、あっという間にかたわらを過ぎてゆくのに出あった。
 その足の早さ、その軽さと言ったらない。
 私を案内していたガイドの志鷹光次郎さんが、どこのひとたちかと聞いた。
「四谷」とか「細野」とかいう地名が返って釆て、電力会社にたのまれ、雨量計をしらべるために、山から山とわたってあるいているとのことである。
  志鷹さんは一ノ越の稜線に辿りついた私に、はるか北東にある峰々の彼方を示して言った。
「あれが爺ヶ岳、鹿島槍、唐松、鑓ヶ岳、白馬。四谷や細野は、白馬の麓の村です」
 四谷や細野は登山基地となっていて、健脚のガイドたちが多いという。
 六月の晴れた朝であったが、眼の前に黒部の谷がきざまれていて、濃く緑がくろずむまでに底深く口をあけ、その対岸にそそりたつ峰々の北面は、まだべったりと雪を残していた。鋭い角度の切れ込みを見せた稜線の連なりは、白馬のあたりでたなびく雲に消え、いかにもはるけき彼方に眺められたのである。
 跳ぶように早いあの脚力があってこそ、この一望の峻瞼な峰々を生活の場にできるのだと感心した。
 志鷹さんは古来からの歴史を誇る立山の芦峅寺(あしくらじ)のガイドである。これも幼少の頃から、北アルプスの山々を庭のようにして育っていて、山の花の名にくわしく、この山旅でもいろいろと教えてくれたが、白馬にはコマタサがあるのだと、雲の中の山影をなつかしそうに見やっていた。
  白馬には、安曇野にある穂高町に用があっての帰りに登った。志鷹さんがなくなられて数年たっていた。
 穂高町教育委員会の高山氏が、三木慶介さんと一緒に、いつもの山仲間と合流した私の案内役になってくれた。高山さんは、また、私の大好きなプリンスメロンをいっぱい持って来てくれてうれしかった。
 その前の日に大糸線平岩から入って、幾つかの沢を横切り、吊橋をわたって蓮華温泉に一泊。
 蓮華温泉は唯一軒の木造の素朴な二階家で、いかにも山の湯という感じがする。庭にシナノナデシコが植えられていた。赤のいろに紫がかっているのが素敵だ。
 翌朝はまだ星のあるうちに出発。旅館のうしろのナナカマドやダケカンバの茂りあう道をひた登りに登ってゆくと、だんだん明るくなって、オオバミゾホオズキやイワオトギリの黄の花が浮んでくる。ヤマホタルプクロやヤナギランの薄紅、カニコウモリやトリアシショウマの白もある。
 栂の大樹の林の中の細い道を汗をかきかき登ってゆく右側に、朝日岳と雪倉岳が重なりあって巨人のようにしずまりかえっている。東面して、まだ谷々には雪がいっぱいある。ゆるやかに弧を描く谷底のなだらかな線は、ここも氷河地形なのであろうと思う。
 しばらくして岩石の露出した斜面にとりつき、天狗の庭だと教えられた。ミヤマムラサキ、タテヤマリンドウ、ミヤマリンドウ、トウヤクリンドウ、タカネシオガマ、エゾシオガマ、キソチドリと賑やかな眺めで、いよいよ花の白馬と言われるお花畑の一端に辿りついたような気がした。
 花にかこまれての一休みをしてから、白馬大池のほとりに出る。小屋と池に面した斜面のハクサンコザタラ、イワイチョウの大群落が、白に薄紅に咲き競って美しい。ムシトリスミレもムカゴトラノオも、シロウマゼキショウも群れをなしている。
 小屋に荷物をおいて、白馬山頂へと辿る砂礫地は這松で被われ、その下草にリンネソウの小さい花がびっしりと咲き、ウラシマツツジは早や早やと紅葉し、ツルコケモモもガンコウランも小さな実をつけている。
 小蓮華へとむかう稜線までくると、這松はもうなくなって、岩や石の間を、ヒメコゴメグサ、ヒメクワガタ、イブキジャコウソウ、キバナノシヤクナゲ、ミヤマアズマギク、タカネヒゴタイ、グロトウヒレン、ハタサンシヤジン、イワギキョウ、チシマギキョウ、ハタサンポウフウ、ミヤマウイキョウ、ミヤマセンキュウ、シシウド、シラネニンジン、ハタサンフウロ、タカネナデシコ、イワツメクサ、ミヤマミミナグサ、コバノツメクサ、マルバシモツケと咲きさかっていた。
  その華麗さ、その種類の多さは、今まで登ったどこの山よりすぐれていて、北アルプス第一の花の名所にふさわしいと思った。
 コマタサもあった。ゆきすごし、また、もどって見つけた。大きな石でかこまれていたのは、だれかが、心ない花盗人からまもろうとしたのであろう。薄い紅いろにエメラルドグリーンの葉のいろが、天然の山の草と思えぬほどに技巧的である。
 志鷹さんの生前に、一緒にこの花にであったら、よろこびも倍加しただろうと、ただ一度の山旅で別れたひとがなつかしかった。
 下りの白馬大池から、栂池に下る石のごろごろした道のほとりにも、アズマシャクナゲ、ベニバナイチゴ、ヤグルマソウ、ミヤマキンバイ、クロクモソウ、アラシグサ、ミヤマカラマツ、モミジカラマツ、ミツバオウレン、ミヤマキンポウゲ、ハクサントリカブト、キヌガサソウ、リユウキンカ、ミズバショウ、ヒロハノユキザサ、タケシマラン、ノハナショウブ、ワタスゲと咲きつづいていて、道の悪さも歩きにくさも忘れた。夕張岳の登りに多かったズダヤクシもいっぱいあった。
 私の山の会には、植物にくわしい菜綾乃さんがいて、一緒に下る道々で、さっさとすぎてゆく若い人にであうと声をかけ、「見ていらつしやい。こんなにきれいな花を。見ていらっしやい。下界では見られませんよ」とすすめていた。


 
65  白馬岳 しろうまだけリンネソウ・イワイチョウ・シロウマアサツキ
新・花の百名山 田中澄江 文春文庫  p.245

 十五、六歳から、奥多摩の山を歩いていましたというと、たいていのひとが、その頃としては珍しかったのでしょうと言う。十五、六歳から海や川で泳いでいましたといっても同じようなことを言う。
 私の十五、六歳の頃に白馬などに登る女の子はいくらでもあった。私たちの山の会の 中には槍ヶ岳に登ったひともいる。東京府立第一高女というのは今の白鴎高校で、夏休みはいつも白馬に集団登山した。私が十九歳で卒業したのは、府立第二高女に併設されていた府立女子師範で、今の学芸大学だが、夏の登山部は、富士山や浅間に登り、水泳部は千葉県の天津で一週間は泳ぎ、それから私は一夏を千倉で泳ぎ、海岸はいつも若い娘や青年で溢れかえっていた。昭和三年から入学した東京女高師は今のお茶の水女子大学で、その水泳部の先生は水泳連盟の松沢一鶴氏。体育の正課として、飛びこみからクロールから平泳ぎをやらされた。女子師範の体育では高跳び、ハードル、砲丸投げ、槍投げなどの陸上競技も正課としてやらされ、バレーやバスケットは、府立第一高女といつも勝敗を争っていた。服装も膝上までのキュロットスカートに半袖のブラウス。私が北アルプスの山々にゆけなかったのは、母が遭難を心配したからである。今にきっと登ろうと思い、北アルプスの白地図を寒冷紗に張りつけ、座敷いっばいにひろげて、四〇〇メートルおきくらいに等高線を塗り重ね、浮かび上がった立山連峰や槍、穂高、後立山連峰の稜線をあこがれの思いで指で辿っていた。
 白馬には十数年前に、大糸線の平岩からバスで蓮華温泉の手前で下り、沢を吊り橋でわたったが、この時の山旅は、はじめての花に幾つか出あった。まず旅舘の庭のシナノナデシコ。ハマナデシコに似てもっと背が高く、花のいろの紅がうすいが、カワラナデシコにくらべていかにも山の花らしい力強さである。その後南アルプスでたくさん出あった。
 翌朝は暗いうちから歩き出し、懐中電灯の光にオミナエシに似て背の低い花をコキンレイカと知る。この花はその後、浅間の湯ノ平高原でいっぱい咲いているのを見、以来、ずいぶん方々で出あった。明るくなって、右に朝日岳と雪倉岳を見て、だらだら登りにあきる頃、忽然と華麗なお花畑があらわれたが、皆知っている花ばかり。トウヤクリンドウ、ミヤマムラサキ、タカネシオガマ、キソチドリなど。白馬大池のほとりで、立山に多かったイワイチョウやハクサンコザクラの群落を見、小蓮華に向う雷鳥山坂で、ハイマツの根元に小さい花びらの外が淡い紅の鈴形の花を見つける。リンネソウとの初見参であった。
 三度日の黒部五郎ゆきのとき、北ノ俣岳の登りでも見たが、カナディアンロッキーでは、道ばたに雑草のようにべったりと咲いていた。
 この日はしかし小蓮華までで、私は山仲間の村瀬幸子さんと小屋に戻った。雷鳴が立山あたりの空でしきりなのが怖かった。花はコマクサをはじめ、二十種類以上を見、小屋につくと忽然と豪雨と雷が来た。一泊して帰りは栂池に。ここでも二十種以上の花と出あったが、私の見たかったシロウマアサツキはなかった。自馬は、高山植物の宝庫と言われて、明治年間から植物学者の研究も進み、昭和になって高橋秀男氏は、三百四十五種類を数えている。立山が二百七十五、八ヶ岳が二百六十七、北岳が二百六十五。
 二度日の白馬はそれから十年近くたって獲倉から大雪渓に入った。標高差六〇〇メートルの大雪渓を葱平まで、四時間かかって登った。ここの岩かげで待望のシロウマアサツキのエメラルドグリーンの葉に、うす紅紫の花を見つけ、いっペんに疲れが消しとんだ。見ても見あきないかたちのよさと思った。しかし昔はもっと沢山あったらしい。頂上着は予定コースの二倍に近い八時間。下りは蓮華温泉まで十一時間。大きなミズバショウの葉にかこまれた露天風呂たち。この山旅で二キロふとってしまい、三日後に孫と伊豆の今井浜で、波乗りを四日間やって、二キロを減らした。


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