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山と渓谷/美ヶ原と霧ケ峰


・長野県  [美ヶ原] [霧ケ峰]
・田部重治著・近藤信之・編 
・新編「山と渓谷」岩波文庫1993発行
[八ヶ岳&山]

  美ヶ原と霧ケ峰
       松本−三城牧場−美ヶ原−上和田−務ケ峰−上諏訪

  美ヶ原から霧ケ峰あたりの秋色を探って見ようという考えが、夏から動いていた。十月は馬鹿に忙がしかったので、つい十一月になった。十一月の初め天気は余りよくなかったが、外に日がないので一日に飯田町駅を出た。角田、小林の両君が同行してくれた。
 塩尻附近の秋色は美わしかった。松本に朝ついた時分には、雨が頻りと降っている。入山辺に向う自動車は停車場前に御客を待っていたが、この雨ではどうすればよいか分らないので、しばらく飛騨屋にはいって天候を見ることにした。穂苅さんが尋ねてくれて、炬燵で山の話をしている間に、風が変って、天気がよくなりそうな模様になった。それでは出掛けようということになって、仕度をして、十一時頃、入山辺行の自動車にのった。
  自動車は私たち三人を乗せてはしった。それは大道の落葉をけ散して行った。それはポプラのちりしく小学校の前を、柿の紅葉のまき散る人家の前を、遠慮なくはしった。見上げる山側の落葉松の色は美わしい。秋は遅いが、まだ秋は去っていない。
 入山辺の渓谷は美わしい。大手橋で降りると、自動車のつめ所には氷のような清水が湧いている。美ヶ原登山口の三城の小屋の所有者が原の人であることをきいて、そこへ行って小屋に一夜をあかすゆるしを得た。そこで縁側に腰を下して薄川の流れにふし、対岸の高遠山、宮入山などの斜面を見ると、秋はあかずうるわしくあたりに充ちている。
 ここから美ヶ原の小屋へは約一里で、原から少しく戻って渓流の右岸に沿うて登った。雨は まだ降り止まず、霧は谷にうずまいている。道はあまり急ということがなく、ゆるやかに登り、景色は小奇麗で、河向うに滝のかかっているところがある。やがて左へ別れる大きな道と別れて私たちは右を行った。追々、広場らしい感じのするあたりを歩いているような気がして来たが、霧のためによく分らない。やがて道が二つに別れて一つの標木が立っている。それには「左王ケ鼻御岳御社を経て小県郡武石村及び和田村に達す。右美ヶ原登山小屋より美ヶ原に至る」とかいてある。丁度、時刻は三時半である。  霧雨のなかにしゃがみながら、しばらく休んでから右へ行くと、道は少しく急な登りになる。
登り切った頃、前方から松高の三人の学生があらわれた。小屋のことをきくと、今まで小屋にいて雨のために帰ったが、まだ三人残っているとのことであった。しばらく行くと渓流の音が聞える。霧がはれて来た。渓流の向うには小屋らしいものの残がいが二、三見える。しかし眼を上に向けると、もっと上の方に新しい大きな小屋があって、人の出入する姿も見える。小屋の附近には扉山観世音菩薩、蓄魂碑と彫った石が建って、古くからの牧場であるらしい様子をもっている。小屋の前から見た山々の斜面にある落葉松は美わしく紅葉して、見上げる高い山には雪が来ている。雨は晴れて、天気はよくなろうとしている。来し方に大きな山の根らしいものの見えるのは乗鞍であろうか。見渡すあたりの山々はかなり奥深い面影をもち、しかも大きな風体をもっている。  小屋にはいったのは四時二十分で、松高の人たち三人は、いずれも猟に来たが、降り込められて、何の獲物もないということであった。小屋は、六畳三間に廊下があり、それに大きな台所と炉があるので、山小屋としては立派すぎる位なものである。初対面の挨拶が終ると、もう親しくなって、炉にぬくまりながら、山の話をしていると時のうつることを知らない。空ははれて月が出ている。隣室には炬燵があるので、夜が更けてからそこにもぐり、温かい一夜を送った。
 明くると風が強く吹いて、空は昨夜よりは悪いが、それでも晴に近い程度である。松高の三人は猟にと小屋の裏山つづきに登り、私たちは美ヶ原へと百曲りに向った。道に沿うて小屋の傍をくるりと曲ると、今まで前にしていた牧場よりも大きな牧場が前に展開されて、一角に一軒の古い小屋が立っている。何と美わしい光景だろう。向って行こうとする美ヶ原には白雪が光り、昨夜とまった小屋からうしろにつづく尾根には、落葉松や白樺の紅葉が目も覚めるほどに美わしい連嶂を形作っている。この三城の牧場を見るだけにも、此処を訪ずれる価値が充分にある。この牧場を過ぎ、一つの渓流を過ぎると更に一つの牧場が見えて、それにはいると道は二つに別れて、右は扉鉱泉に行き左は百曲りを経て美ヶ原に通じている。ここに立って昨夜泊った小屋のうしろから美ヶ原につづく尾根や、ここ一帯の水が流れて行く南西方面の渓谷の有様や紅葉や、行手の白い美ヶ原一帯の連峰の奥ゆかしさなどを見るとき、余りにも勿体なすぎる美わしさに、心身のふるえるような感激を感じる。そろそろ雪が深い。渓流に沿うて進むと、やがて美ヶ原らしいものが頭を圧して真直に聳えている。道は二つに分れて、「右は陳坂、左は百曲りに達す」という標木がある。時に九時十分前だった。左に入る。雪は深いので登りはかなり苦しい。 一曲りするごとに一息ついてはふりかえりつつ山をながめる。眺望は大きくなって来る。木曾駒ヶ岳、北岳、間ノ岳、仙丈などが真白く聳立している。原のとっつきに、雪が今にも崩れそうにかかっているところを靴で足場をこしらえながら登る。原に立った時は十時であった。
 何と美わしい高原であろう。この高原を叙述するに適する言葉は、心なき人々も、ただ素直に心のままにあけすけに美ヶ原と唱えた命名に尽きるといえよう。私は今までに多くの高原を見た、そして美わしいと思いつつも、私たちはそれには何かの欠点を見られないではいられなかった。しかしここではあらゆるものが渾然として美しい名の通りの偽わらない高原を現出している。一つの無駄もそこにはない。最も理想的な高原の典型、それはこの地上において、ここに実現されている。北望すれば、高原の頂上らしいものが北西に聳えて、それから手前の窪みになるところに一つの小屋が見える。原には一面に雪が一尺はど深いところは二尺近くも積っているが、ところどころつつじの木が頭をもたげている。私たちが方々から見て、この大きな高原を信越線と中央線との間の一つの耶魔物として、名も知らぬ山魂として取扱ったのは、何と大きな誤りであったろう。和田峠の北方に延々と続いている美ヶ原一帯の尾根は、日本アルプスの何処にも見出されないほどの美わしい高原であり、ユートピアである。私は雪の積らぬ十月頃の、また、つつじの咲く新緑の頃のこの原の美わしさを想像した。
 今日は上天気ということは出来ないが、南北、中央アルプスはいうに及ばず、北方には妙高一帯の山々が雲の間に根をあらわし、北から東よりに北信牧場が新雪に輝き、四阿山、浅間山はもう真白くなっている。しかしここから見える最も眼をそばだてる驚異は、原とつづいているように見えるほどに蓼科山が近くに聳え、その北方には裾野が准大なスロープをなして佐久方面へなだれていることである。
 強い風のなかに、この雄大な光景を感嘆しながら私たちは和田の方へとすすんだ。やがて原の一角に、松本第二中学生中村、二木両君の遭難記念指導標があって、方向を示し向って右は物見石山を経て武石村に至り、左は百曲りを経て入山辺村に至る」としてある。昨年の九月前記の学生二人がこの原で濃霧にまかれて路に迷い遭難したことは、新聞紙上で知ったが、今や此所にこの指導標を見て、遭難の光景まざまざと眼前にあらわれるかの如き感を抱いた。
  雪は深い。しかし天気は悪くないため、この高原がやがて中山道につづく尾根の見通しがついたので、ほっと一息ついた。東南の方には森々と茂った針葉樹の渓谷が展開されて渓間には径が見える。それは陳板を越え、茶臼山を経て行くものであろう。北方に開く武石川の上流も等しく針葉樹の深い谷らしい。追々、進むにつれ、秩父の山々が蓼科の高原の彼方に聳える。
 物見石山についたのは一時前で、山蔭で風を避けて、焚火しながらパンを喰っていると、和田の方からルックを背負った三人の人が登って来るに会う。いずれも東京の人、霧ケ峰に登ろうとして雨のために果さず、諏訪に一泊し、自動車で上和田まで来てここへ登ったという。委しいことは話さず、それきりに別れた。それから先は雪は一層多く、深いところは二尺もある。山はようよう痩尾根になったが、やがて和田の村が下に見えるようになると、雪がなくなって牧場がある。それを過ぎると道は急に下り始める。
 上和田の村が渓流に沿うてぼつぼつあらわれ姶める。やがて道は中山道と一所になって右に折れると、村は町のように軒を並べているが、どこか落着いた昔ながらのどつしりした風貌をもって、思いを中山道の華やかであった昔に運ぶものがある。長井館にはいったのは五時少し前で、家は昔ながらの太柱の大旅館、あちこちに通ぜる廊下、泉水、庭園などその昔の街道の盛時をそぞろにしのばせる。炬燵にはいりながら御飯をたべた。古い歴史をもつ森閑とした宿で、昔をしのびながら山の話をする愉快さは格別である。
 明る朝、八時十分前に上和田を出て男女倉に向った。中山道を行くことにも一種の趣がある。永く蹄み固められた道はさすがに堂々としている。渓谷がようやく迫り合って何物かが出そうだと思う頃、左折して男女倉街道に入る。道は少しく細くなるがなかなかよい。村は中山道から別れて半里もあろう。ここは新開地、名があまりに珍しいので、村の入口の家でそのいわれをきくと、何しろ新開地ですから、早く子供をこしらえるために、男と女とを倉のような場所へ入れたという意味でしょうといって笑う。村には白樺が目立って多い。
 霧ケ峰はここから約一里といわれる。沢に沿うて林間の細い道を南へ辿って行くと、雪が多いので難渋する。やがて沢と分れて植林の間を分けて明るくなったかと思うと、霧ケ峰の高原が、突然、前面に開いて、八島池、鎌ケ池が目前に展開される。この道は男女倉越の西に位するもので、八島池と鎌ケ池との間に出るものである。見渡すあたりは一面の平坦地で、東南には車山が聳え、西北には鷲ケ峰が吃立し、遥か南方にはゆるやかな茫々たる高原がはてしなくのび、その末は諏訪方面におぼろに夢のようにぼけている。惜いことには今日は昨日ほど天気はよくなく、蓼科山は間近に白雪を頂いて聳立しているのが暫らく見えて、うすい雲が近くに 動き、時々、あられを降らしている。暫らく茫然としてたたずんでいると風が強くて寒いことおびただしい。男女倉で鷲ヶ峰よりに鳥を補える小屋があるということをきいていたので、少しく登ると果してあった。声をかけると、中には温かそうに焚火をしているおやじさんが一人いて、渡鳥を補えるためのおとりを沢山にもっている。ここでゆっくり休んで昼飯をたべ、昔し山賊熊夜長範が住んでいたという岩窟が車山にある話や、底なしといわれるほど深い八島池の伝説などを子供のようになってきき、スキー時にはまた訪ずれることを約して去った。
 ここから下諏訪へ行くのは容易であるが、上諏訪へは迷いやすい。高原の遥か南の一角に、ここから見える切分に平行して道を見出すようにと教えられて急いだ。しかし雪どけのために湿地を真直に突切ることが出来ないので、西より南の方へと高原の縁をたどるように迂回して、やがて東へ廻り流を渡ると、平らなところに、旧御射山の遺跡があって、小祠が立っている。
  そこから登り気味になって、小屋で教えられた切分と一所になったが、道は雪のためか容易に見当らない。あちこち探し廻ったあとで、やっと逼らしいものを見出して急ぐと、高原が更に高原を生んで、階段的に続いている。しかし私たちは西より南へと進み、高原は南へ南へと果てしなく大きく延びている。やがて峠のようなところを過ぎると、道は大きくなって角間沢に沿うて行く。かくして角間新田を経て上諏訪についたのは六時頃であった。
                         昭和五年十一月の山旅):1930


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