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蓼科山 オヤマリンドウ,ハナイカリ,ワダソウ


・長野県茅野 中央本線茅野駅よりバス
日本百名山 深田久弥 新潮文庫 p.270
新花百名山 田中澄江 文春文庫 p.224
[ご案内] RGより50分 [花・百名山] [八ヶ岳&山]

コテジ近くから望む蓼科山 RADISH-GARDEN別棟コテジ近くから望む蓼科山の写真。深田久弥さんの南側からではなく、ほぼ西側からです。コテジのテラスからの絶景です。

 春の花           ザゼンソウ 
 夏の花 レンゲツツジ、シャクナゲ、鈴蘭 
 秋の花     リンドウ、マツムシソウ 


   69 蓼科山(2530m)  深田久弥 新潮文庫p.270

 古い本によると、浅間山を北岳、蓼科山を南岳と呼んで、この二山を東信州の名山としている。
両方とも円錐形の恰好のいい山だから、昔の人の好尚にかなったのであろう。中仙道を下って北佐久の岩村田あたりまで来ると、干曲川の谷を差しはさんで、相対立したこの二つの山が旅人の眼を惹くのである。
 蓼科山は俗に北八ッと称せられる連嶺の一番北の端に、一きわ抜きん出ている峰で、その余威は更に北に向って、次第に高さを落しながら広大な裾野となる。しかしそれは赤城山のようにスムーズな美しい線ではなく、幾らか不整形なので人々の眼はただその円錐のみにそそがれる。この円項はどこから望んでも端正な形を崩さず、蓼科山が名山として讃えられたゆえんも、ここにあるのだろう。
 名山であるから古くからいろいろな呼び名がある。昔は立科と書かれた。諏訪から望むと、完全な円錐形をしているので、諏訪富士とも呼ばれた。蓼科山は円錐形上に更に円錐丘を戴いた複火山であって、富士に摸されるのは実はこの円錐丘である。この円錐丘はなかなか傾斜が急峻で、山頂に近いところでは三十二度ある。少し下っても二十八度を示している。
 草枯丘いくつも越えて来つれども蓼科山はなほ丘の上にあり

と歌った島木赤彦の見たのも、この円錐丘であった。諏訪に住んだ赤彦には蓼科山は親しい山であった。「草桔丘いくつも越えて」という描写は、蓼科南側の、いま蓼科高原と呼ばれている地勢を指すものであって、この方面から眺めた蓼科山が最も姿がいい。
 島木赤彦に誘われて、『アララギ』の歌人たちは蓼科高原を訪れて、秀れた多くの歌を残した。

 信濃には八十(やそ)の高山ありといへど女の神山の蓼科われは   伊藤左千夫

 蓼科はかなしき山とおもひつつ松原なかに入りて来にけり     斎藤茂吉

 中でも左千夫の絶唱であるところの、
 さびしさの極みに堪えへて天地に寄する命をつくづくと思ふ

は、やはりこの高原にあっての感動であった。それから四年経て、左千夫は東京の陋巷で死んだ。彼の眼底には時折蓼科の「天の花原」が去来したことであろう。
 飯盛山と別称されたのも、円錐丘の形から来たものである。高井山とも呼ばれたのは、高井は鷹居で、鷹が住んでいたからであろう。そう言えばやはり古い本に「山中には雷鳥・雷獣など棲みて、夏時雷雨の起るや出没奔飛す」と書いてある。蓼科山は鬱蒼とした深い森林に包まれている。鳥獣にとっては恰好な住所であろう。
『三代実録』に、陽成天皇元慶二年(八七八年)叙位の事が出ているから、大昔から尊崇された山で、登山者も多かった。
 もう三十年も前、秋の初め私は一人で大門峠から蓼科牧場へ行き、そこの牧場事務所で泊めてもらい、翌朝項上へ向った。蓼科高原という名は山の南の諏訪側に付せられているが、高原という感じはむしろ北の北佐久側の方にふさわしい。こちらは実に広大な裾を引いていて、その中に、協和牧場、蓼科牧場、赤沼乎、御泉水などの、高原らしい風景が随所に拡がっている。
 牧場といっても、畜舎があったり、乳をしぼったりする牧場ではなく、近在のお百姓が牛や馬を預けに来て、この高原に放し飼いされるのである。彼等は日頃の鼻輪や手綱を取りはずされて、一夏を悠々と大自然の中に暮す。その間に本然の野性を取戻すのか、秋に連れて帰る時には、いくらか気性が粗暴になるそうである。
 牧場事務所からの登山道は、御泉水を通過すると、原始林の中を真っすぐ項上目ざして通じていた。急峻な代りにドンドン高くなって、やがて尾根に出る。特徴のある円錐丘はそこから上である。森林が尽きて、大きな岩が累々と散乱している所を攀じ登ると、項上の一端に取りつく。
 頂上は一風変っている。大きな石がゴロゴロころがっているだけの円形の広地で、中央に石の祠が一つあるきり。(現在は小屋が出来たそうである。)秋風に吹かれながら、石ばかりの項上で私は一時間あまり孤独を味わった。帰りは反対側の諏訪側におりた。円錐丘を下って森林帯に入り、そこからただひたすら下り一方の道で、やがて蓼科高原の親湯温泉へ出た。


59蓼科・オマリンドウ,ヤナギラン,ワダソウ「新・花の百名山」田中澄江 文春文庫 p.298

 軽井沢の追分の千メーター道路あたりから真南にそびえる蓼科山の二五三〇メートル は、北の空をさえぎる浅間山の二五四二メートルに高さでは劣るが、いかにも華奢で、 ほっそりとしていて秀麗だと思う。蓼科を若い牡鹿とするなら、浅間山は中年の牡牛の ような感じがする。火山としては蓼科の方がずっと古いけれど。
 富士山に表と裏の二つがあるように、中央線側から見る蓼科は、東に八ヶ岳連峰の偉 容が連なるせいか、高さとしてはほんの少し八ヶ岳の方が高いだけなのに、何かひどく 子供子供して簡単に登れそうな感じである。
 私たちの山の会でも何度も登ろうと計画してつぶれている。ある五月の一日、前の日 に北八ヶ岳の縞枯山に登って、大河原峠から蓼科にと計画した朝は土砂降りの南で、せめてその裾野の林の中までと雨衣をつけて歩きだしたが、北斜面の春はおそくて、岩礫地にワダソウの白い花がわずかに咲いていた。ワダソウはナデシコ科で、ワチガイソウと花がよく似ているけれど、少し葉も花もがっちりしていて、白い花片の先に桜のような切れこみがある。
 頂上まではとてもゆけぬとあきらめて二度目は、初夏の一日、ワダソウの名のついた もとである和田峠から鷲ヶ峰を歩いて、また、大河原峠から蓼科にと計画したのだが、これが梅雨どきとぶつかってまたもや雨。霧ケ峰高原のヤナギランは霧の中に咲いてこそ美しいと思った。強い夏の陽のもとでは、この花の絆やかな紅いろが強調されて、たしかに美麗ではあるけれど、何か風情にとぼしい。風情とは完璧であるよりは、どこかもろいようなところのある不安定感の上に成立するのではないだろうか。
 ヤナギランの花にはじめて出あったのは、乗鞍岳の軍用道路としてひらかれた、南からの道路のほとりであった。茂りあう針葉樹の中に一株二株で、森の中の乙女とも言いたいかわいらしさを感じた。
 その後北海道の層雲峡で、ひろい道路の両側に大群落を見、カナディアンロッキーヘ いって、これも道の両側を埋めて延々とつづくヤナギランを見て、その強烈さに圧倒さ れた。一口に言って、かわいげがない。「炎の花」とも呼ばれていて、森の山火事のあ となどでいち早く旺盛な生命力を見せるからだという。
 霧ケ峰も草焼きでもやって、そのあとに一せいに繁殖したのだろうか。ニッコウキス ゲも車山の斜面に盛大に咲くけれど、ヤナギランのいろの強さを見馴れると、朱黄色の ニッコウキスゲが淡泊な印象を与えるから不思議だ。
 そして霧ケ峰では霧の去来する中で、その強烈なヤナギランが、何ともいじらしい姿 に思えてくるのがおもしろい。
 さて三回目は晩秋。前日の美ヶ原散策は晴れた空の下で、咲き残ったマツムシソウや ノコギリソウや花盛りのオヤマリンドウなどを見てたのしみ、崖ノ湯の山上旅舘に泊ま って、明日こそ三度日の蓼科山に。早くねたのに、夜半から雨の音が廂を打ち出した。 またあきらめてこのまま東京へ戻ろうか。朝の温泉につかりながらだれが言い出したと もなくて皆登ろう! ということになった。雨が降っても槍が降っても蓼科に登ろう。
 話が決まるとみな一せいに雨支度。用意のよい人はスパッツをつけ、前日に山靴が少 し足に合わなくて、足を引いていた私は宿の主人の百瀬氏から地下足袋を借りた。そし て三度日の大河原峠から本降りの雨の中を全員三十人が、クマザサの道から、コメツガ やシラベの林間をゆき、泥寧を倒木で越えて、蓼科本峰の熔岩円項丘の真下まで私はお くれおくれて二時間半。噴出した火山岩の重なりあった急斜面を這い登って三十分。小 屋につくと、七十三歳と六十二歳の小屋主夫婦がおいしいうどんをつくって待っていて くれた。雨が上がって、帰りの霧ケ峰高原の枯れすすきの中に、点々と咲くオヤマリン ドウの紫が宝石のように見えた。
  やなぎらんの花の群落穂絮となり
       夕日に光る沼ぞひの道   根尾幸子


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